「自然との共存」だけじゃない、もののけ姫
久々に、最初からきっちり見ました。もののけ姫。
もののけ姫といえば、人間に捨てられ山犬として育った少女サンと、
不運にも祟り神の呪いを受け、それを解くための旅をするアシタカの物語。
ラストシーンでシシガミ様に首を返し、豊かな自然が一面を埋め尽くすシーンが象徴的です。
「サンは森で、わたしはたたら場で暮らそう。共に生きよう。」
と言うアシタカのセリフにあるように、「人間と動物(自然)は共存できる、共存しよう。」
これこそがもののけ姫と言う映画のメッセージだと思っていました。
20何年前に環境破壊のことをテーマにするなんて、宮崎駿はやっぱりすごい。
もののけ姫、地球を愛するものとして大好きな作品だ!!!と思っていました。
しかし、今回見て気づいてしまったのです。
今まで重大なメッセージを丸っと見落としていたこと。
もののけ姫で語られている、もう一つの側面。
それは、憎しみの連鎖を断ち切ることの重要性です。
この映画で描かれているのは、相対する二つの価値観(人間VS自然)の共存。
サンが自然や大地の象徴だとすれば、エボシやジコ坊が貪欲にまみれた人間の象徴。
サンや山犬にとって、エボシたちは生きるために木を切り倒すだけでなく、
聖なる森とシシガミまでも脅かす、自分たちの利益にしか目がいかないとんでもない存在。
一方でエボシたちにとってサンやモロ一族は、発展を妨げる、話の通じない野蛮な邪魔者。
物語の終盤までは両者が対立し、お互いの状況を憎しみ疎み合っている状態です。
しかし、この状態に切り込んでいくのがアシタカなのです。
ジブリは、ラピュタや千と千尋のように、カップルで現状を打開していく物語も多いため、
サン&アシタカ VS エボシ勢と無意識に捉えてしまっていましたが、今回そうではないことに気がつきました。
物語序盤でわかるように、アシタカはものすごい弓の腕前を持っています。
が、基本的に人を殺そうとしません。
弓を射るのは自分の命が危ない、やむを得ない場合のみ。
人が行き倒れていれば身元も関係なく助け、背負って歩きます。
そしてエボシやモロを含む周りにも無駄な争いを避けるように促します。
本当に強い人は力を振りかざさない、ということを体現している人間です。
シシガミに首を返すよう説得するシーンで、逃げ回るジコ坊たちを見てサンは言います。
「人間なんかに話しても無駄だ!」と。
でもアシタカは即答するのです。「人の手で返したい。」
サンのように、自分とは相いれない価値観だから、話すだけ無駄だ。関わらないようにしよう。
と感じることは生きていればたくさんあります。
特に私はトラブルが起こる前に回避するタイプなので、人の懐に踏み込んでいくことや
トラブルの最中に声を上げることは積極的にはしません。
しかしアシタカは、対立するものや異なるものになんのジャッジもせず、
ただ淡々と最善の状態を描き、双方に語りかけ、自分ができることをやっているのです。
中道をいく、という言葉がぴったりの人です。
これだけまっすぐな心を持っているからこそ、呪いを受けることに値したのではないかと思います。
死を意識することでより、彼の中の純粋な部分が研ぎ澄まされ、それが表面に出ていたのではないかな。
人が憎み合うこと、負の感情を連鎖させてはいけない、と劇中で度々言っている姿が印象的でした。
これは、スターウォーズの主人公、ルーク・スカイウォーカーとも重なりましたね。
そして面白いのが、アシタカは結局はたたら場(人間側)に住むのです。
だけれどもサンや森(自然側)を愛していて、「会いにいくよ、ヤックルに乗って」というあの名言へ繋がるわけですね。
彼が対立していた二つの憎しみ(祟り神の元となる感情)の連鎖を打ち切ったのです。
たたら場が全て燃えてしまってから、やっと「やり直そう」と言うエボシ。
今の地球も、なくなってしまってからじゃ遅いことがたくさんあるね。
少女が主人公であることが多いジブリ作品。
しかし、タイトルが「もののけ姫」であっても、この作品の主役は間違いなくアシタカであると、今回観て肚に落ちました。
何年経っても色あせないというのは、本質ど真ん中のこと、変わらないことだからですね。
いい時間でした。また見よう。
Rita.