あの梅雨の夜にわたしは Inspired by「そっけない」
音のない部屋で、彼の息遣いが耳に届く。
この手を握って、わたしはどうするつもりなんだろう。
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同期の誰かが企画したお食事会という名の合コンは、正直あまり気が乗らなかった。
昔は誰とでも仲良くやって、どちらかといえば人懐っこい方だったと思う。
いつからこれほどまでに、人付き合いが適当になってしまったんだろう。
なんとなくその場を楽しみながら、時間が経って汗をかいたレモンサワーに視線を落とす。
それでも今日は‘当たり’の部類だ。
隣に座っている男子は顔も好みだし、ファッションや音楽の趣味も合う。
話していて特に違和感がなく、普通に楽しい相手だ。
「もう一件、行かない?」
「おお、行こっか」
この雑踏から一人になるにはまだ早い時間だったから、何とは無しに声をかけた。
バーでの時間は想像以上に楽しくて、大好きなお酒の話や、最近観た映画の話もした。
さっきの店では気づかなかったけど、カウンターに置かれた彼の手にどことなく色気があって、「好きな手だな」と思った。
男の子と二人きりで、こんなに酔っ払ったのは久しぶりだった。
それでも、楽しい夜は終電とともに終わりを告げる。
改札まで送ってくれた彼に、何度か振り向いてバイバイをする。
わたしが酔っ払って帰る時、必ず駅まで迎えに来てくれてたのにな。
一人で歩く帰り道は、少しだけ長く感じた。
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しばらくは仕事で忙しくなった。
忙しくなった、と言ってもわざわざ忙しくしているのは自分だ。あの部屋に一人でいる時間をできるだけ減らしたい。
例のお食事会の幹事から、あの夜二次会をしたことについてしつこく聞かれたけれど、適当に流した。
実際彼はあの後も頻繁に連絡をくれたり、映画に行こうと誘ってくれたりもした。
けど、これ以上深い関係になるのは気が進まない。自分の心を誰かに奪われることは、向こうしばらくあって欲しくない。
彼が少なからず好意を持ってくれていることはわかるけど、それが伝われば伝わるほど、わたしは返信することができなくなっていた。
仕事がひと段落した頃には、6月になっていた。道端の紫陽花が綺麗で、わたしが一番好きな季節だ。
昔から入学式などのイベントごとは見事に雨で、身内からは散々雨女と言われてきた。
でも、雨が降るとなんとなく元気が出る。
大好きなレインブーツを出してきて、濡れることを気にせずジャブジャブと歩く。
普通の人は嫌がるかもしれないけれど、空気いっぱいに水分を含んだ、このみずみずしい季節が好きだ。
雨の街中を歩いていると、一瞬で体の全細胞が固まった。
間違いない。元彼のタバコだ。
人間の全反射神経が、こんなにも活動することってあるのだろうか。
自分の女々しさに嫌気しかない。
家に帰ってきてシャワーを浴びても、あの香りが鼻の奥に明らかに残っている。
タバコを持つ彼の手が好きだったこと。
自分の部屋では吸って欲しくないから、いつもベランダで吸ってもらっていたこと。
彼がコンビニで買うときの番号を、早々に覚えてしまっていたこと。
すっかり忘れたはずの記憶が、湿度を含んだ空気と一緒に身体中を埋め尽くした。
どうにも居られなくなって、スマホを手に取る。
すでに23時を回ろうとしていた。
こういうことをしてはいけないんだろうな、と思いながら、
既読スルーしていたトークを開く。
「部屋に、虫が出てね。来れたり、しないよね…?笑」
我ながら最低だ。でも、今夜を一人で過ごすことが耐えられなかった。
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1時間も経たずに、彼はわたしの部屋にいた。
記憶から引っ張り出されたタバコの匂いが充満していたわたしの部屋。
二人でこの部屋にいることもできなかったので、駅前のカラオケに移動した。
薄暗く狭い部屋に入ると、久しぶりにお互いの話をした。
話をしながら、時折彼の視線がわたしを捉えているのがわかる。
「どうしたの?」
「あ、いや、ううん。なんでもない」
そういってグラスに伸ばした手がやっぱり好みで、綺麗だった。
彼はきっと、すごく優しい人だ。
このまっすぐすぎるほどの気持ちに応えることができる、純粋無垢な女だったらよかった。
そうでないわたしは今夜、残酷すぎるほどに彼の優しさを利用している。
「なんか、こういう時間好きかも」
ソファに置かれた彼の手に、ゆっくりと自分の手を伸ばす。
音のない部屋で、彼の息遣いが耳に届く。
この手を握って、わたしはどうするつもりなんだろう。
END
こちらのストーリーは、カツセマサヒコさんの『あの梅雨の夜に僕らは Inspired by「そっけない」』にインスピレーションを受け、女性側の「わたし」サイドを創作させていただいたものです。
Rita.