老いて体が動かなくなる理由
人間の体がだんだん利かなくなっていくのは、周りの人に頭を下げるためかもしれないと思った。
人は傲慢で、自分がなんでもできると思ってしまったり、人間界だけでこの世界が回っていると勘違いしたりする。
謙虚でいよう、と心がけていても、自分が自分がという気持ちは時たま出てきてしまうものだと思う。これはもう仕方がない。
そこで私のおばあちゃんの話。
おばあちゃんは田舎で三人姉妹の長女として生まれ、昔ながらの慣習でしっかり婿をとり、代々続く家を守ってきた女性だ。
兼業農家だったので、毎朝畑のお世話をし、冬に備えて保存食を作り、家の片付けをし、とにかく足が止まらない。
祭りで人が来るとなれば、何人分ものお布団やお茶碗を用意しておさんどんをするし、
先日私が泊まりに行った時も、あばらにヒビが入っているにも関わらず布団を干してふかふかにしておいてくれた。
とにかく動く。座れと言っても座ってくれないのがおばあちゃんだ。
そんなおばあちゃんが、最近少しだけ、私に頼みごとをするようになってきた。
もう何度も足を手術していて、階段の上り下りや足場の悪いところが辛いようで、二階にある布団を取ってくれだの、畑にあるエンドウ豆に支柱を立ててほしいだの、と依頼をしてきた。
これは結構珍しいことなのだ。
足も痛くてあばらも折れてるので、人に何かを頼まなければやっていけないと思うだろうが、多分今までのおばあちゃんなら自力で頑張っていたと思う。でも、今回ばかりはかなりしんどかったのかもしれない。
実際依頼を受けた「エンドウ豆に支柱を立てる」という作業は、まず150cm程度の支柱を10本抱えて、畑に運ぶところから始まる。おばあちゃんの身長は多分、支柱より低い。
今までよくこの仕事を一人でやっていたなと、尊敬や驚きと同時にやや呆れの感情になった。
本題に戻ると、こんな風に自力でゴリゴリと生きてきたおばあちゃんも、ついに頼みごとをするようになってきたのだ。体が利かなくなってきたことで初めて、人に頼るという選択が出てきた。
これって我々現代人にとって、 本当はすごく必要な体験なのではないか、と思いました。
今はなんでも一人でできる時代で、お隣さんに醤油を借りたり、作りすぎた煮物をおすそ分けするなんてことはまずない。都心部ではお隣さんの顔さえ知らない人もいるだろう。
なんでも自分で好きなようにできる時代。その分、人に頼るというカードを切らなくなってきている。人に迷惑をかけないように、という教育を受けてきた人も多いと思うし、その結果、私たちは自分一人で生きていけるような錯覚に陥っているかもしれない。
しかし本来の人間というのは、酸素の供給や栄養素の生成さえも自分ではできず、植物や動物に命を支えてもらっている、生態系の小さな小さな、小さすぎるかもしれない一存在だ。
人に頼らず生まれて、勝手に育ち、死んでいくことなどまずできない。そもそも両親の縁がなければ生まれてくることも自分では選べない。
様々な技術の発達で、人間はなんでもできる!と思って生きていても
体にガタがくることで、人に頼むという選択肢を思い出すことで、支えてもらって生きているという気持ちを思い出せるのかもしれない。
Rita.