Rita's art of life.

人間の研究をしています。

本当の男らしさとは、その繊細さ。

 

先日ふと思いました。

一般的に言われている「男らしさ」「女らしさ」というのは、

きっと逆なんだろうということ。

 

男性は、肉体の強さとは反対に、心はとっても繊細で。

パートナーに先立たれたショックで自分も弱ってしまったり、好きな人がいても傷つくことが怖くて、本気の恋であればあるほど気持ちを伝えられなかったりします。

 

一方女性は、実はすごく強い生き物です。

 男性がいなくとも、和気あいあいとつながりを作って生きていけるし、恋愛においては「上書き保存」というスタンスで上手に切り替えて生きています。そして何より、子どもを産み育てるたくましさを備えています。

 

先日、奥さんの出産に立ち会ったという同僚は、出産現場の壮絶さが鮮明に焼き付いて、頭から離れないと言っていました。女性は、なぜこの痛みや苦しみを知っていて二人目を産むことができるのだろうか、と。

母になった友人たち曰く、産むのは怖いが赤子の顔を見ると全部吹っ飛んでしまうのだそうです。女性の忘却能力は、子孫繁栄のためにあるのかもしれません。

 

この話を今日会った友人(子育て終了し、お子さんが独立済み)にしたところ、

それは昔保育園の先生に言われたことがあると言うのです。

 

「男の子は弱いから、力強くたくましく生きなさい。女の子は強いから、おしとやかに可愛くいなさい。と教えるんです。それでバランスが取れるんです。」って20年前くらいに聞いたわ、と。

 

 

男性は男性らしく

女性は女性らしく

 

というけれども、

本来の男性らしさは繊細さであり、本来の女性らしさとは強さ。

男性が女性よりもよっぽど繊細な生き物だと

ある程度の長さを生きてきた女性なら、きっと気づいているでしょう。

 

 

掘り下げるべきは、男性らしさ、女性らしさではなく、

自分らしさ。

 

女性らしく、年相応に、信頼が得られるように、好感が待たれるように、ではなく。

男性らしく、甲斐性があるように、仕事ができると思われるように、でもなく。

 

ただありのままの姿で、

自分の姿を鏡にそのまま映すように。

 

男性も女性も

あなたもわたしも

お父さんもお母さんも

大好きなあの人も

相容れないあの人も

 

何者かになることはできない。

自分は自分でしかいられない。

ただ自分らしく、素直に生きる。

 

 

 

Rita.

中休みの唄

わたしたちは、人間というちいさすぎる器の中に入っていて、

五感という限られた感覚だけに抑えこまれて生きていて。

 

目の前にあって、見て触れるものしか信じられなくて、

それ以外の"何か"は無いものとされていて。

 

この肉体の何倍も、何十倍ものエネルギーを秘めているけど

どうにかこの中で収まろうとしてやっている。

みんな一つのところから来て、一つに還っていくけれども、

いまはわざわざ、それぞれの人間という器に入っている。

 

それは、

分離を味わいたくて選んだこと。

違いを体験したくて選んだこと。

 

相手と分かり合えない苦しみ

目の前にいないと不安になってしまう、限られた感覚だけでの日常

 

どんなに溶け合ったように感じても

一つにはなれない私とあなた。

 

苦しくて悲しくて、やってられない。

 

 

でもそれを味わいたくて選んだ。

人間という器に入ること。

五感だけでどうにかやってみることを。

 

 

 

Rita.

20代の10年間へ、贈る言葉

まもなく20代が終わる。

 

たぶん、これからの人生の中でこの10年が1番長い。

学生から始まって、社会人になって8年。

人生の1/3という割合は、この先覆ることが無い。

 

10代とは違って、最初から最後まで自分の意思で考え、悩み、選び、生き抜いてきた10年間だ。

 

本当に色々なことがあった。

初めて一人暮らしをしたのも、初めて彼氏と別れたのも20代だった。

 

みんなと同じように髪を黒染めして、ダサいスーツを着て、必死に就活をした。

 

毎日何かしらやることがあって、一緒に笑える友達が当たり前にそばにいた。

 

初めてのお給料、初めての辞令。

初めての退職願も出した。

メンタルと体がぼろぼろに壊れたのも、それを取り戻したのも20代だった。

 

 

乾杯用に形だけ注いでもらっていたビールが、仕事後の楽しみに変わるくらいには長い時間を過ごしてきた。

毎日友達と笑い合えることが、全然当たり前じゃないことも知った。

 

 

健康に、何事もなく30代を迎えられることが、当たり前じゃないことをわたしたちは知っている。

 

でも、日常のどうでもいいことがそれをかき消していく。

 

仕事とか、人間関係とか、金欠だとか、ちょっと太ったとか、そろそろ部屋片付けなきゃとか、そういうことでわたしたちの毎日はすぐにいっぱいになる。

 

 

 

 

わたしは、ときどき遺言を書くことにしている。人生は急に終わるかもしれないということを、ちゃんと覚えておくためだ。

 

できる限り静寂の中で、できる限りリアルな気持ちになって書く。これを書いたら終わり、という気持ちになって。

 

遺言を書いていて悔いが残ることは、いつも2つあった。

1つは自分がやってみたいと思ったことをやらなかったこと。そしてもう1つは、愛する人に愛していると伝えなかったこと。

怖くなって、ボロボロと涙が出てくることもあった。

 

だからわたしは、やってみたいことはやれる限りやり、好きな人には好きと言う人生を選択してきた。

 

 

 

この前、20代最後の遺言を書いた。

 

 

2つの後悔は、もう出てこなかった。

 

  

 

 

 

わたしたちは、この10年間で、間違いなく大人になってきた。

自分で考え、意思決定をし、何かに傷ついたり、誰かを傷つけたりした。

悩んで迷って、たくさんのことに折り合いをつけて、自分という人間が確立した分、少し頑固になった。

 

 

ここに戻ってくることは、もうない。

わたしを育んでくれた、10年という時間からの卒業だ。 

 

まもなく20代が終わる。

もう二度と戻ることができない、楽しくて、辛くて、苦しくて、幸せな10年間だ。

 

 

 

【研究発表】自分への還り方 ⑤全部忘れて楽しく生きる

 

⑤全部忘れて楽しく生きる

 

最後です。

 

これまでたくさんの棚卸しをしてきました。

ここまで自分と向き合ってきたら、やってきたことはもう間違いなく自分の血肉になっています。

 

人を分析してみることもいらないし、

自分はこういう人間だと何かに当てはめる必要もありません。

 

人と関わる中で、働く中で、恋愛をする中で感じる感情の揺れを大切にしながら、日々自分が幸せを感じられることを人生に取り入れ、気楽に生きています。

 

もうこれ以上ないほど自分と向き合った!と思っても、

生きていれば嫌なことや辛いこと、感情がぐわっと動くことはあります。

次のステージに行けばまた違う気づきもたくさん出てくるかもしれません。

 

わたしは、診断こそ受けていませんが冬季鬱病だと認識していて、とにかく冬のテンションと活動量が落ちます。仕事は夏の半分くらいしかできません。さらに、なぜだか知りませんが先端恐怖症でペン先とか尖ったものを向けられるのが怖いです。

 

これらの個性は、どの診断にも出てこないし、周りに同じ特性を持っている人も一人もいません。人とは違うけど、何にも当てはまらないけど、どうしてもこういう特性がある、と思えば譲らなくていいです。カテゴライズできない自分を受け入れ、その対策をしながら生きていけば良いと思います。

 

 

前回の人生でやれなかったこと、今世で「やるぞ」と渇望してきたこと。

一歩踏み出すのは怖いと感じる時もあるかもしれません。でも、遅かれ早かれ自分の魂が望んだことは、然るべきタイミングで現実になっていきます。

自分の本当の願いを無視し続ければ、同じ課題がなんどもなんども現れ、そのうちに強制的に方向転換せざるを得なくなります。

 

心の声を聴きながら、感情の揺れを一つひとつ確かめながら、

本当の自分に還る旅、自分を生きることを続けていきましょう。

 

人生には「今」しかありません。どんなときだって「今」の連続で、「今」何を感じるか、何をするかはすべて、自分が決められます。

今世の命が終わるとき、100%やりきったと思える毎日を私も生きていきます。

 

「自分への還り方」、最後までお読みいただきありがとうございました。 

 すべての魂が自分へ還り、心の底から満ち足りた時に流れる綺麗な涙が、世界中にありますように。

 

 

 

Rita.

【研究発表】自分への還り方 番外編 親と和解する

番外編 親と和解する


自分らしく生きる、自分自身であるために、まさに紆余曲折を経てきました。


自分の中では『自分ってこういう人なんだ!』と納得がいっていても、いざそれを周りに開示するとなると話は別です。

 


今までの仮面をかぶった自分と、素の自分はあまりに違いすぎて、今までの知り合いからどう見られるかが怖くなり、全てを開示する自信がまだまだありませんでした。

 


そこでものすごく効果を発揮したのが、親とのすれ違いを清算したことでした。

 


子どもは誰しも、親を喜ばせようと思って生まれてきます。小さい頃は世界の全てが親で、親に褒められるため、認められるために頑張ってきた子も多いのではないでしょうか。

 


私も例に漏れず、偏差値の高校に行き、大学に行き、社会人になったらしっかり働いて親を楽させるつもりでした。

 


それはトイレ掃除の一件で叶わずでしたが、フリーランスになってからも、頑張る理由といえば家族のためでした。

 


家族旅行に連れて行きたい、家のローンを返してあげたい、成績を出した自分を見てほしい。喜んでほしい。

 


そんな風に思っていました。

 


しかし、たびたび体調を崩して働けなくなったり、借金をつくったり、ノルマの達成のために親に協力を仰いだりと、現実は全くと言っていいほど、超がつくほどの乖離状態。

ものすごく落ち込みました。

 


結局わたしは、投資するだけしてもらって、何ひとつ返せてない。

親を喜ばせられなかったんじゃないか?

期待に応えられていないんじゃないか?という不安が常につきまとっていました。

 


だから本来の自分らしさに気づけたときも、こんなに好き勝手にやっていいのか。先にやるべきことをやってからじゃないと、よく思わないんじゃないか。と、自分を発信することにブレーキがかかっていました。

 


それを変えたのが、

親に手紙を書いたことです。

 


昨年の自分の誕生日と、親の誕生日に2回書きました。

 


内容は、

親が描いた人生には全くならなかったこと、期待に応えられていないことを申し訳無く思ってるということ。

 


最近周りで子どもが生まれ始めて、親の愛情というのは自分が予想するよりも遥かに、ものすごく偉大だということを知り、そんな愛情を自分に注ぎ続けてくれたことに心から感謝していること。

 


最初に目指した人生ではないけれども、今はとても幸せで、自分なりに一歩ずつ進んでいきたいということ。

 


を書きました。

 


親はそんなことは思いもしなかったと、そんな風な思わせてごめん、どんなあなたでも応援しているし愛していると言ってくれました。

 

 

自分にとってはこのことがとてもとても、大きかったです。もう好きに生きていいんだ…という気持ちと、やっぱり大切に思ってくれていたんだという安心感とで、涙が止まらなかったです。

 

 

もし、親御さんがご存命であれば、お話しできるのであれば、メールでも手紙でもいいので本音を話しておくことをわたしは勧めます。


お子さんがいる方であれば、どんなあなたでも愛しているよと、元気でいてくれればいいんだよと、赤ちゃんの時に思っていたことを今改めて伝えてあげてほしいのです。お子さんが中学生でも高校生でも40歳でも60歳でもです。


セラピーを受けて棚卸しをしている方でも、5,60代で『親から認められたかった』という方はたくさんいます。

 


子は親を助けるために親を選んでくると言います。私の場合、それは本当だと思います。自分という存在がいることで、親が満足してくれたのか?というのを30歳手前になっても考えていたわけですから。

 


親に愛想をつかされているかもしれない、自分は親に対して何もできなかったかもしれない、ということを、わたしは30年間最も恐れていたんだと思います。

 

 

いまは、友人たちが子どもを産み、毎日息をしているかまで心配している姿を見て、親が子を愛していないなんてことは絶対にないなと思っています。


息を吸って吐いて、日々楽しそうにしていてくれればそれでいいんだと、私が親でも思うでしょう。心配はしても、それも愛情表現のひとつです。

 

時間はかかりましたが、親とコミュニケーションが取れたことで、いよいよ自分に還ってきたんだという感覚がさらに強くなりました。

 

さまざまな事情があって、親御さまとコミュニケーションを取ることができない方もいると思います。その場合は、出さずともお手紙を書いたり、墓前でお話しするだけでもきっと変わると思います。

 

 

 

親との思いが通じあったことで、

冒頭の『自分がどう思われるか』という、人からの評価が全くと言っていいほど気にならなくなり、以前よりも明らかに自由に、クリエイティブに動けるようになりました。

 

 

それでは、あと1投稿で自分に還ります。

しばしお付き合いください。

 


Rita.

【研究発表】 自分への還り方 ④自分と向き合う/内観

④自分と向き合う/内観

 

自分というものは一体何なのか。

この如何しようも無い分離感や、寂しさ、孤独、自信のなさはどうしたら終わるのか。

本当に自分の心が喜ぶ、大事な使命は、生き方は、何だろうか。

 

自分の輪郭を知るために、たくさんの分析ツールを使い、統計上の答えを出しました。

人と関わり、嫌だなと思う感情、嫌いだと思う人から逃げずに、その相手の中に自分を見いだしながら、自分ができる限り向き合ってきました。

統計には当てはまらない、自分だけの感情やパターンを知りました。

 

自分自身のことは、正直自分が一番よくわかりません。

特に「思考」している状態だと、本心ではない仕事上の顔や人間として社会の中で生きる自分という顔が先行して、左脳的に「考えた」ことしか受け取ることができません。

 

 

 

忙しくしていた頃も、わたしはかなり内観をしているつもりでした。

・毎月1日には仕事や人生の棚卸しとして、生きる目的やそれに必要な数字の目標を洗い出す。

・日々セルフカウンセリングを取り入れ、自分がどう在りたいか、どう生きたいかの自問自答を紙に書き出す。

・その日起こったありがたいと思うこと、人への感謝を綴る、感謝日記をつける。

・今日の0時で人生が終わる前提で、家族や友達に遺言を書く。

 

 

当時の自分は、すごく自分に向き合っていたつもりでしたし、実際にこれらをやってきたのは、その時の前進を支え、自分を助けていたので、今考えてもすごくよかったと思っています。

 

しかし今思えば、「仕事で成果をあげるための自分」という仮面がついていたように思います。本来の自分になるための、be myself のための内観ではなかったんだなぁと。

今はたまーに遺言を書いたり、たまーに感謝日記をつけることがあるくらいです。

 

 

 

仮面や世間体などを何も纏っていない状態の、まっさらな「インスピレーション」を受け取るには、できる限り空っぽの時間や空間を創ることが大切です。

 

体調を崩して働けなかったころ、わたしは自分でも知りようのない宇宙の叡智や、

仏教の法則など、直感がバシバシ降りてきていた時期がありました。

 

倒れる前は、自分で一生懸命頑張って、動きつづけました。

「もう体も心も限界!止まって!!!」とでも言うかのように、全てが停止し、その後は体力や気力や時間に大きな空間ができました。

 

そのあいたスペースに、自力でいっぱいいっぱいで、他の何も入らなかったスペースに、自力ではなく、明らかに他力が入ってきていた期間でした。

 

 

自分の内面、心の在りどころから噴き出してくる、本当の自分が願うのぞみ。

ふとした時に聴く自分の心の声は、ほとんどの場合正しいことが多いです。

 

それは、「もう休みたい」の時もあったし、

「もっと愛されたい」の時もありました。

 

ゴリゴリと自分で動き回っていた時には考えもしなかったことです。

 

 

「仕事で成果をあげるための自分」という仮面を外して、

それとは全く関係ない自分の人生を始めた時、大きなシフトチェンジが起こった気がします。

 

 

今現在のわたしにとって、自分と向き合う時間はヨガと料理、そしてたまにプールや海です。

呼吸や、体の状態と向き合うこと。自分が何を欲しているかをちゃんと見極めること。

 

お寺に行って坐禅を組んだり、仏門に入ったり洗礼を受けたりして、

宗教家として俗世を捨てて、日々祈りを捧げる人生もあったのかもしれません。

 

でも、日常禅という言葉があるように、日々のひとつひとつが本来は禅なのです。

ひとつひとつの行動が、自分の願いと合っているか。

ひとりひとりとの関わり合いが、自分の望んだものになっているか。

内からくる声と日常にずれがなくなってくるのは、心身ともにとても気持ちの良いことです。

 

どう生きたいかは、全部自分が決めてきていて、

心身のスペースが空けばちゃんと、その声が聴こえてくると思います。

 

 

 

Rita.

【研究発表】自分への還り方 ③人と関わる

③ 人と関わる

 


このブログでも度々出てきますが、人間関係は相手と自分の、鏡の関係になっています。

私たちは、鏡があることで初めて自分の姿形を見ることができます。

 


自分以外の誰かが、鏡のように自分の精神状態を映してくれます。

鏡によって自分が認識していない自分を見せられるので、受け入れ難いことも多々あり、ものすごく骨が折れましたが

今では自分の現状を知るための一番の方法だとも思っています。

 

 

 

精神面、仕事面と分けてまとめていきます。

まずは精神面から。

 

 

 

人と関わると、

イラっとすること

許せないこと

怒りがこみ上げてくること

 


が少なからずあります。

 


わたしの場合は、チャレンジしない人、自信がなくて動けない人、口だけの人、女性であることを武器にする人がとにかく好きではありませんでした。

 


理由は書くまでもありませんが、

自分が女性性を封じてものすごく頑張って、昼夜問わず仕事をしていたので、甘えてる人、やらない人が許せなかったんです。

 


本当は自分が甘えたいし、女の子扱いされたいし、時にはもうできません、やりたくありません、休みたいです。と言いたかったんです。

 


だからそれを目の前でやられるとどうしても腹が立って仕方がない感じでした。

 

 

 

「嫌い」「嫌だ」

 


という感情はとても重要で、その奥深くに何が隠れているのかしっかりと掘り下げていく必要があります。

 


掘り下げた結果が、どう考えても受け入れ難い、涙鼻水嗚咽なしには通れないこともあるのですが、その分自分に還る絶好のヒントであり、チャンスだと思っています。

 

 

 

 


次に、仕事面についてです。

 


② 自己分析 のおかげで、自分のことはそこそこ把握していたつもりでした。

しかし、引きこもりから脱して人と関わるようになってからは、さらに自分の得手不得手が明確にわかるようになりました。

 


わたしはフリーランスとしていくつかの会社と業務提携をして仕事をしているのですが、そのうちの一社が猛烈に「適材適所」という働き方を推進しています。

 


具体的には、

 


・自分の得意なことに200%集中する

・できる限り、自分の苦手なことをやらず、

それを得意なほかの人に任せる

 


というものです。

 


得意なことはすぐ取りかかれて、早くて楽しくて成果物も優れていますが、

苦手なことは取り掛かりが億劫な上、成果物も得意な人には絶対に敵いません。

ストレスが溜まるので、今我慢してやっていても、いつかはやりたくなくなります。

 

 

 

この適材適所を守ろうと思うと、自分の得手不得手をしっかりと認識し、申告しなければなりません。

 

 

 

「わたしは○○が得意で、好きなのでやりたいです。でも**は苦手でストレスなのでやりたくないです。」

 


「なんかスピード感遅いけど、もしかして苦手なことやってない?」

 


そういう会話が頻繁に出てきます。

 


自分の得意なことがそもそもわからない場合は、周りを見るととてもよくわかります。

一緒に働くメンバーの成果物や、スピード感、苦手だと申告している内容を見ると、

 


「あ、もしかしてわたしこれ得意なのかな?」

 


と気がつくことが多いです。

自分の得意なことは、実は小さい頃から当たり前にできてしまっていて、自分にとっては何でもないことだったりします。

 


わたしの場合、文章を書くことに関しては、読書感想文時代から困った記憶がありません。

困った記憶もめちゃくちゃ活躍した記憶もないので、スラスラ文章が書けることが能力だとは全く思っていませんでした。

 

 

 

反対に、部屋や冷蔵庫の整理整頓、車庫入れなどの奥行きがあるものが絶望的に下手です。

 


部屋と冷蔵庫の整頓は、一度得意な子に任せたことがあるのですが、そのときの速さと完成度の高さに衝撃を受けたことを覚えています。

 


それまで、汚いねとかごちゃごちゃしてるねとか言われるとムッとしていたのですが、その一件で自分がいかに下手くそかわかり、「わはは、超センスないんだよね!笑」と言えるようになりました。

 


きっと整頓してくれた子も、自分がそんなに整頓が得意だとは知らなかったと思います。わたしを通して、「あ、自分って整頓上手いんだ」と思ったはずです笑

 

 

 

人と関わることで自分が浮き彫りになってくるということを精神面、仕事面からまとめました。

 

 

 

が、その最たるものはやっぱりパートナーシップだと思います。

 


そちらについては前回の研究発表、幸せなパートナーシップをお読みください。

 

 

 

④自分と向き合う 内観

に続きます。

 


Rita.